シーレの関心

シーレの好奇心はどこまでも自分の内側へと向かっていて、沢山の自画像を残しました。
自画像を含むシーレの人物像の大半は物凄くデフォルメされて、体を捩り、内側の苦悩や欲望をむき出しにしているのです。

自慰にふける自画像、陰部をあからさまに露出した女性像などの思い切りが良くてやってのけるその表現は21世紀の現在の鑑賞者にも驚きを与えますね・・。
確固たるデッサン力に裏付けられたシーレの作品の値打ちが国際的に評価されるようになるのは、20世紀後半になってからなんです。何でも評価されるには、ある一定の時間が必要ですよね。

日本では1979年の回顧展が動因となって、展覧会や出版物でシーレがしばしば紹介されるようになりました。遂に日本進出です。

クリムト、自分は興味なし

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シーレは28歳年長の画家クリムトとは師弟というよりは、生涯を通じた友人という関係にあったのです。
エロスが作品の重要な要素になっている点はシーレとクリムトに共通していますが、作風の面では両者はむしろ対照的ですね~。共通しつつ、対照的。

世紀末の妖しい美をたたえた女性像を描き、金色を多用した装飾的な画面を創造したクリムトは「表現対象としての自分自身には興味がない」として自画像をほとんど残さなかったそうです。
本当に対照的ですね。

シーレの犯罪?

1912年、ヴァリとともにノイレングバッハに住んでいたシーレは、未成年者誘拐並びにわいせつ図画を未成年者に見せた罪で、24日間拘留されている。シーレ自身の手記によれば、彼は家出少女を2晩ほどかくまったのみで、何らやましいことはないと言っているが、真相は明らかでない。

1915年、シーレはヴァリと別れ、エディット・ハルムスという女性と結婚する。1916年から1917年にかけて軍務に服するが、上官の理解を得て、軍役の間も絵を描くことを許された。1918年、第49回ウィーン分離派展に出品した作品は高い評価を得、ようやく画家としての地位を確立しようとしていた矢先、当時ヨーロッパに流行していたインフルエンザ(いわゆるスペインかぜ)であっけなく死去した。28歳の若さであった。なお、妊娠中であった妻のエディットはシーレの死のわずか3日前に同じ病で没している。

シーレの人生

シーレは1890年、ウィーンに近いトゥルンという町に生まれた。二人の姉がいたが長姉は10歳で早世している。シーレの4つ下には、後にモデルとして作品にしばしば登場することになる妹ゲルトルーデ(愛称ゲルティ)がいた。

1906年、ウィーン美術アカデミーに入学し、アカデミックな美術教育を受ける。翌1907年にはクリムトと知り合っている。美術アカデミーの保守的な教育方針はシーレの肌に合わず1909年、仲間たちとともに退学した。1911年、それまでクリムトのモデルを務めていた、ヴァリ・ノイツェルという当時十代の女性をクリムトから紹介される。ヴァリという女性はその素性が不明であるが、1911年からほぼ4年間にわたりシーレと同棲生活を送り、『死と少女』をはじめとする多くの作品のモデルとなっている。

エゴン・シーレ

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エゴン・シーレ(Egon Schiele, 1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、20世紀初め頃のオーストリアの画家。エーゴン・シーレとも。

当時盛んであったグスタフ・クリムトらのウィーン分離派、象徴派、オスカー・ココシュカに代表される表現主義のいずれにも属さず、独自の芸術を追求した画家であった。

ココシュカの代表作

1910年、表現主義の雑誌『シュトルム』(嵐)の発行人であり、同名の画廊の経営者でもあったヘルヴァルト・ヴァルデンの招きで一時ベルリンに滞在し、『シュトルム』誌の同人にもなっている。同じ年に描かれた『ヴァルデンの肖像』は、画面やや左寄りに真横を向いて立つモデルを描いた風変わりな肖像で、ココシュカの代表作の一つに数えられている。

オスカー・ココシュカ

オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886年3月1日 - 1980年2月22日)は、20世紀のオーストリアの画家。

クリムト、シーレと並び、近代オーストリアを代表する画家の一人である。表現主義に分類されることが多いが、ココシュカ自身はウィーン分離派、「青騎士」、「ブリュッケ」などの当時の芸術運動やグループには参加せず、終始独自の道を歩んだ。

ココシュカは少年時代をウィーンで過ごし、ウィーンの工芸学校で学んだ。20歳代には、建築家ヨーゼフ・ホフマンの主宰した「ウィーン工房」に参加し、装飾美術の仕事をしている。また、挿絵入り詩集を発表し、当初は画家というよりは詩人、装飾美術家として知られていた。

エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー

エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner, 1880年5月6日 - 1938年6月15日)は、20世紀前期のドイツの画家。

エーリッヒ・ヘッケル、カール・シュミット=ロットルフらと並ぶドイツ表現派の代表的画家である。
1880年、ドイツのアシャッフェンブルクに生まれた。1901年、ドレスデン工科大学で建築を学んだ後、1903年から1904年にかけてミュンヘンで美術を学んでいる。1905年、ドレスデンにてヘッケル、シュミット=ロットルフらと画家グループ「ブリュッケ」(「橋」の意)を結成した。「ブリュッケ」の画家たちは、共通の表現様式や主義をもっていたわけなく、従来のアカデミックな芸術に反抗する若手画家の集団であった。キルヒナーは1911年、他の「ブリュッケ」の仲間らとともにベルリンに移住した。1912年には、カンディンスキー、マルクらの結成した「青騎士」グループの展覧会にも出品している。「ブリュッケ」には後にエミール・ノルデらも誘われて参加するが、グループは1913年には解散した。

ワシリー・カンディンスキー

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ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、Vassily Kandinsky(ヴァシリー・カンディンスキー)とも、1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得している。

ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチとともに彼は抽象絵画の先駆者として位置づけられている。また、多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。

ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のまま死を迎えたが、1967年に未亡人のニーナが晩年の彼を支えたかどでレジオンドヌール勲章を受けた。

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